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2009年1月17日
惰性

 台所で手を洗おうとしていた。袖口が濡れないかと少し気にかかったが,本格的に水仕事をするわけでもないので,袖をちょっとたぐるつもりで左腕を上に突き上げた。右手は蛇口に向かっていて,まだ触れてもいないコックをすでにひねる格好になっている。
 このとき,それまで水道の蛇口に向けられていた視線が伸びる途中の左腕の行き先に移動した。そこにはステンレスのパイプで組まれた棚があり,腕を伸ばしきると明らかに手がぶつかる高さだ。普通なら,障害物に向けて勢いよく腕を伸ばそうとはしないが,このときは違っていた。躊躇なく腕は突き上げられ,その結果軽く握ったこぶしは見事なアッパーカットを棚に食らわしてしまった。
 こういった光景は何故かスローモーションで,そして,他人事のように見える。
 腕を伸ばすことに決めたのは「私」だろうが,伸びる過程をコントロールしていたのは「自分」だと思う。だが,視線を腕の行き先に向けたのは「自分」なのか「私」なのかよくわからない。また,行き先に危険が待っていると気付いたのは「私」だが,結果がわかっていながらそれを回避しなかったのは「自分」だろうか「私」だろうか。
 この間は1秒くらいだったが,「自分」と「私」とに齟齬が生じたのか,どちらもが相手に遠慮している間に起こったようなおもしろい出来事だった。
 老化現象で反応が鈍くなっているだけだと言われるとそれまでの話だが。

2009年1月28日
亜夢21

 耳の奥のほうにできた腫瘍を取り除く手術がこれから始まる。患者はぼくで,ベッドか何かの上に仰向けに寝かされている。医者が耳元で手術の手順を説明しているようだが,内容はほとんど聞き取れない。
 右耳のすぐ下あたりにメスを入れられたのか,そこから首のほうに向かって5センチほど鉛筆で線を引かれたような感覚がある。その後の手術はあっという間に終わり,最後に傷口に軟膏のようなものが塗られているのが感じ取れる。
 「少し痛みがあった」と告げると,医者は「麻酔が弱かったのかな」と言いながら,細い注射器でぼくの胸に素早く何度も針を刺した。続いて,左耳の手術に移るが,右の時と同じような皮膚感覚がある。
 夢はこれだけだ。ところが,この夢で見えるものとして登場するのは,上を向いて寝ているぼくの頭部と胸を刺した注射器だけで,医者の姿や手術の様子も何もいっさい現れない。真っ暗な中に寝かされたぼくだけがいるといった感じだ。その頭部も離れたところから見た状態ではなく,実際に上を向いて寝ているときに見えている自分の顔の見え方のような感じで,身体も手足も有るのか無いのか見えていない。
 ただ,皮膚感覚だけは鮮明で,それがこの夢を成り立たせていて,これがなければ目覚めたときこの夢は思い起こすことはなかっただろうと思う。
 「夢を見る」と言うように,夢には視覚的なものが圧倒的に多いように思う。だがそれは,他の感覚が中心の夢ではそのことを思い起こすことが困難なことや,まったく感覚が伴わない夢があったとしたら,それは思い起こすこと自体が不可能だからではないだろうか。

2009年2月10日
文字

 地下鉄に乗って横長のシートに座っていると,後から乗り込んできた青年がぼくの目の前に立った。青年の吊り輪を持たないほうの手はお腹のあたりで清涼飲料水らしきボトルを握っている。ボトルの模様の大半は手に隠れて見えないが,側面のお尻に近い部分に大きな文字で「な」が読めた。
 今どき平仮名表示の商品名というのが気になり,「な」で終わる清涼飲料水の名前をあれこれ2駅ほど考えたが何も出てこない。
 青年がボトルを持ち替えたとき疑問は氷解した。その文字は「な」ではなく,ローマ字の「t」と「a」で,それがラフな書体で書かれていて,「Fanta」だった。
 模様をいったん特定の文字として読んでしまうと,その呪縛からなかなか逃れることができない。これは,壁や紙の染みや木目などの模様の中に何かの動物や人の顔を見つけてしまうと,それ以外の見方ができなくなるのと似ている。
 テレビのクイズ番組で,裏返しにした平仮名を何文字かランダムに示し,それを並べ替えて人名などを答えさせるものがある。そのとき,文字の中に「ち」や「さ」が混ざっているとクイズは突然難しいものになる。それは,この2つの文字は裏返すと互いの元の字とによく似ていて,裏返しのままでも自然な形で読めるからだ。
 そこで,「ち」は「さ」に,「さ」は「ち」に置き換えるのだと自分に言い聞かせてクイズに臨んでも,正解に至らない場合が多い。裏返された文字が新しい文字になりすましていて,文字列から単語を作る段階で,強烈に縛りを掛けてくるからだろう。
 ネッカーの立体のような両義性のある現象に対しては,視野闘争を起こして別の意味の解釈を試みるほど慎重な「自分」にしては,上で述べた文字に関しては柔軟性の乏しい対応に見える。文字文化の歴史が人類の進化の中で比較的日が浅いことだからかもしれないが,この硬直したもののとらえ方は,「自分」より「私」のほうの問題であるように思える。どうだろう。

2009年2月25日
言葉4

 ネットで買い物をしたら,確認のメールが来た。
 今在庫が切れていてその商品の発送は入荷後になるが,それでもかまわないかどうかを聞いてきた。返信に「それで結構です」と書いて送ったが,どうも心もとない。
 普通,「それでは結構です」なら拒否の意思表明で,上の答え方は承諾を示したことになると思うが,仮名一字の違いなので,逆の意味に取られていないかと心配になったのだ。また,「それは結構です」だと否定的な意味合いが強いが,肯定の場合にも使えるといったこともある。
 「結構」を辞書で引いてみると,「これでも結構役に立つ」のように不十分だがある程度満足という肯定と否定の中間の意味もある。結構は結構微妙な使われ方をする結構な言葉だ。
 多義性のある言葉はたくさんあるが,正反対の意味も合わせ持っているものは少ないのではないだろうか。そういった言葉はうかつに使えないわけで,混乱を避けるために使用を控えている内に消え去ったり,よく使われるほうだけの意味に淘汰されてしまう運命にあるように思う。
 言葉の使用は人類の歴史の中で比較的新しいものなので,言葉の使い手は「私」のように思えるが,「結構」のように微妙な使い分けを,特に会話では,ほとんど意識せずに使えていることを考えると,やはり「自分」の存在が背景にあってコントロールされているように思えてくる。

2009年3月17日
道路標識

 曲がり角などで,一本のポールに表示板が上下に数枚並んでいる道路標識をよく見かける。上は円盤で進入禁止や速度制限などの表示が,下は横長の長方形で時間の制約や自転車の通行許可などが書かれている場合が多い。観光地で見る名所案内用の方向を示す矢印などは行き先に合わせて別々の向きに取り付けられているが,道路標識はこれらの表示板がセットでメッセージを示しているので,当然同じ向きに固定されているはずだ。
 こういった標識は,車を運転しているときはちらっと目をやる程度で,歩行者にとっては意味のない情報なので,ていねいに見られることがほとんどない物ではある。
 ところが,セットになっているということがわかった上で,改めて道路標識を見るとおかしな状態に見えていることに気が付く。標識一枚一枚の向きが観光地の名所案内のようにずれているのだ。
 そこで,ずれて見える道路標識を注目しながら近づいていくと,ある地点で,標識は同じ方向にそろえて取り付けられていることがわかって驚かされることになる。
 身の回りにあるほとんどの物は周囲や背景の何かに影響されていて,その基準に従った見え方になる。ビルの窓がどこから見ても飛び出したり浮き上がったりしているように見えないのは,窓を固定している壁がつくる平面の方向に強制されているからだろう。マンホールの蓋が浮き上がったり立ち上がったりしているように見えないのも道路の平面が方向を決定付けているからだろう。
 道路標識のように周囲から孤立した状態の物のほうがまれで,このような空間にぽつりと置かれた物は,単眼視ほどではないにしても,位置などが確定しにくい。そのため周囲とは無関係にそれぞれの形が見られ方を主張することになる。円盤は円であるように,長方形は長方形らしく見える方向にあるように。その結果,道路標識では上下に並んだ表示板が互いに違った方向を向いた様子で見られるのだろうと思う。

2009年4月12日
しぐさ

 『C1000ビタミンレモン』のテレビコマーシャルで,女優の篠原涼子が笑みを浮かべて商品の栄養ドリンクを口にし,軽くウインクしながらその瓶の口に息を吹きかけるとその息が周りの人に広がるというのが最近よく流れている。後半のウインクしながら息を吹きかけるシーンを魅力的な女性が演じるところにこのコマーシャルの見せ場があるのだろうが,ぼくは飲もうとして瓶に口を付ける最初のシーンに関心を持った。
 片手で商品の瓶を持ち上げて口に運ぶだけのしぐさだが,口の近くまで手で運んだ後,顔のほうをごくわずかに動かして瓶の口との微妙なずれを修正する0.3秒ほどの身のこなしがそうだ。注意して見ないと気付かないほどほんのわずかに首を傾げるしぐさが何とも自然で,少なくともその瞬間だけは演じられたものではない感じがする。
 意識して行われる動作は目的にかなっているはずだが,その行為がきっちり落ち着くまでには何気ないように見える微調整がいつも伴っている。老眼の人がで新聞を読むところを横から見ていると,取りあえず手を伸ばして目と新聞との距離を調整するが,最後には前後に頭をわずかに動かして位置を落ち着かせていることなどがいい例だと思う。
 口もとまで瓶を運ぶ行為は「私」の役割だろうが,そこからちょうど良い具合に唇と合わせる動作は「自分」が受け持っているように思える。「自分」の行為はコントロールすることができないとすると,その人の個性ということになるのだろう。映画監督やカメラマンが撮りたくなるという女優がいるようだが,人並み外れた容姿というのは当然としても,いわゆる演技が上手というだけでなく,こういった所作が魅力的だからなのだろうと思った。

2009年4月26日
アブ

 いつものように勤め先に向かって歩道を歩いていると,視野の一部がグレーの楕円形で覆われた。久しぶりに現れた目の障害を疑いながら数メートル進むと,どうもそれは,視覚や脳の問題ではなく,実際に目の前に存在する物だとわかった。
 注目しながらさらに数歩進むと,目の高さにあるそれは昆虫で高速に羽を動かしてホバリングをしている。名前はわからないが,体長2センチくらいの黒っぽく細身で精悍な感じがする無彩色のハチかアブのような昆虫だった。
 手が届きそうなところまで近づいても,昆虫はその場を譲ろうとせず,結局こちらがそれを中心に半径30センチくらいの弧を描いて回り込むことになった。
 その間ずっと視線を昆虫に向けていたが,羽を激しく羽ばたかせてはいるもののそれが位置する場所はまったく移動していない。周囲のあらゆる物から完全に独立した空間がそこに形成されていて,昆虫はその異なった次元に属しているかのように見える。この昆虫は飛ぶというより浮かんでいる。それより空中に在るというべきなのかもしれない。
 子供のころから空中に在るものには特別な関心があり,それも,飛ぶより,浮き上がるより,浮遊しているより,ただ単に宙に在るというだけの存在に憧れのような魅力を感じてきた。アドバルンはつなぎ止める紐が,飛行船はその移動が,手を離れた風船は浮遊する様子が魅力をいくぶん減退させていて,ただ宙に在る状態に匹敵することはない。
「飛ぶ」や「浮かぶ」が重力に対する抵抗であるのに対して,「在る」は重力とも無縁であって,ただ存在することが重要で,それが宙に在るとき私たちの関心の対象になるだけなのかもしれない。これは,亜空間の現象とまったく共通するところだ。

2009年5月24日
輪ゴム

 人差し指に掛けた輪ゴムを引っ張って中指の外を回し,もう一度人差し指に掛けると写真のようになる。この輪ゴムの形はどちらの指にも対等で立体的な対称になっていて,この状態でどちらの指先をつかまれても,反対の指から掛けたときと逆の手順で簡単に輪ゴムを外すことができる。
 野球のボールの縫い目がつくる曲線は風変わりな形をしているが,たどっていくと一続きになっていて元に戻る。この形と輪ゴムを指に掛けてつくった形は同じ構造をしていて,この曲線に面を張ると野球のボールの皮の形になる。つまりボールの表面はこの形の皮が2枚絡み合って互いの隙間を埋めるようにして覆っていることになる。
 そこで,この皮が1枚だけで他に何も無い状態を考えると,この皮は,リンゴをもぎ取るときの手の形に曲がっていて,球形の空間をつかんでいるように見ることができる。

   このことを意識して作られたのかどうかは知らないが,「ソニー損保」のマークがこれと同じ構造をしている。このマークは青の部分が曲面でそれが緑の空間を挟んでいるように見える。ところが,これは視点を変えると,緑の部分が面で青が空間というようにも見える。互いが逆の関係になっていて,面と空間が入れ替わるところがなかなかおもしろい。
 この曲線がつくる空間そのものに着目すると,そこにまったく異なった現象が姿を見せる。手がつかむものをリンゴから分厚い本に置き換えると,手は手の平の外にも広がる空間の一部分をつかんでいることになる。このことは輪ゴムがつくる曲線では,もう一つの曲面も方向は異なるが分厚い本をつかむ手の形をしていて,そこから外に広がった空間の一部をつかんでいることになる。
 手でつかまれた形のこの2つの空間は,分厚い本の形から類推できるように異なった方向に広がっている,と同時に交わった部分では重なり合った状態になっている。つまり,輪ゴムのつくる曲線の中では2方向の広がりをもつ空間がそこで共存していることを意味する。
 これらのことは,少し前にBBSで述べた亜空間のシンボルマークのことと内容は重なるが,「どちらでもあるもの」がつくりだした「どちらでもないもの」と言えるのではないだろうか。

2009年6月14日
影4

 早朝の電車に乗ると,朝日を真横から受けて走る電車の影が線路脇の景色の中に長く何十メートルも先まで伸びているのが窓の向こうに見える。影は景色の起伏などに合わせて変形し,建物があればその壁に立ち上がり,田畑が広がっていると遠くまで伸びていく。電車の進行に従って伸びたり縮まったりする影の激しい変化の様子は見ていて飽きることがない。
 乗客がまばらな電車では,左右両方の窓を貫通した光が走る電車の影の中にぽっかり抜けた窓のフレームとそこに座る人のシルエットを映し出している。どれかの窓に収まって映っているはずの自分の影を見つけようとしても,景色の変化に伴って刻々位置や形の変わる影の中から探し出すのは容易ではなく,頭を傾けたり軽く手を挙げたりして,その動きから何とか見つかる。
 当然,地面に立っているときも,横から光を浴びると長く伸びた自分の身体の影の先端に頭が載っているのが見えるが,これに違和感を覚えることはない。だが,遠くの窓の中に見つけた自分の上半身は,車両の影で胴体が大きく切り離されているからか,不思議な存在として映る。
 単なる影なのに,遠く離れたところに分身のような存在の証しを見つけ,何故か懐かしさや場合によってはいとおしさすら覚える。それはそこに「自分」を発見したからだろうか,あるいは「私」を確認したからだろうか。

2009年7月4日
亜夢22

 向かいのマンションのどこかで飼っている犬が夜中に吠え始め何時間も鳴き止まない。そのためこちらは何度も寝返りを打ち悶々とするが寝付けない。嫁さんも同じように寝られないのか突然起き上がり窓のカーテンを開けて夜空を見だした。
 嫁さんは月があまりに綺麗なのでぼくを呼んだ。西の空には十三夜の月が煌々と輝き山の後ろに沈もうとしている。見上げると,満天の星が細かく割れたガラスにライトが当たったようにきらきらと光っている。よく見ると,どの星も星座図のように線で結ばれていて,中には星座の形がギリシャ神話のイラストで飾られているものもある。ずいぶん昔に見た夢と同じ光景だ。
 嫁さんが今日の空はおもしろいと言うので,今はぼくの夢の中にいるからと平然と答えた。
 その言葉に自分自身が触発されて,夢の中なら飛んでみようと思い,ベランダの柵を鉄棒で前転をするようにして乗り越えた。11階から地面に向かって真っ逆さまに落ちて行き,地上1メートルくらいのところで身を翻して宙に浮いた。嫁さんもすぐ後を付いて来た。二人並んで近所の道路の上をしばらく飛んでいたが,足で地面を蹴るようにして加速すると,嫁さんが今日はしんどいと言いだしたので,取って返し,何事もなかったかのように布団に戻って眠った。
 久しぶりの明晰夢だった。

2009年8月12日
シェード

 近頃は朝でも日差しがきつく,通勤で使う電車では,ぼく専用のようになっている席の窓のシェードをいっぱいに下ろして座っている。シェードはナイロンのような繊維で十字に編まれていて,光を8割がた遮っている感じがする。その分だけ外の景色は不鮮明で,通過する物の輪郭と建物の窓くらいしか認識できない程度の見え方になっている。
 そんな窓から外を眺めていると,不明瞭な景色が突然はっきり見える瞬間があるのに気が付く。
 窓の外を流れて行く景色に視線を合わせていても,首を巡らして景色をゆっくり追いかけていても,漠然と見ている限りは,シェードに妨げられた光景は不鮮明なまま過ぎ去って行くだけだが,不鮮明な景色の中で気に掛かった建物などに視線を固定したまま,その動きに沿って首を移動させると,像はふいに鮮明な姿に変わる。そして,首の動きが止まると,像は極しばらく鮮明な状態を保った後,すぐまたシェードで遮られた不鮮明な状態に戻る。
 漠然と見る行為に比べて,特定の物に着目して視線を当て首を巡らすまでする行為は,関心が強く注がれているためか,脳は曖昧な状態のままの世界を再構築して足場を築し直しているのではないかと思われる。漠然と見ているときは荒画像のように情報量が少なくても大きな問題が生じなかった世界に,注目するという行為が割り込んできたために,改めて高画質で撮り直したという感じだ。視界に入る光景には膨大な量の情報が含まれている。脳はそれを逐次適切に処理しているのだろうが,省力できるところはさぼり,きっちり対応する必要のあるところは全力を挙げるという使い分けをしているのだろう。
 普段の生活でもこのような切り替わりは頻繁に起こっているはずだが,それに気付くことはほとんどないように思う。電車の窓の外を流れる景色とそれをほどよく不鮮明にするシェードの組み合わせがこの現象を見せてくれたのだろう。このような少し特殊な場面を通して脳の日頃の働きを垣間見ることができるのはなかなかおもしろい。
 外国語を学ぶとき「見える」と「見る」の違いを意識させられることがあるが,景色を漠然と眺めている状態が「見える」で,意識して視線を送る行為が「見る」に対応しているのではないだろうか。
 同じことが聴覚の「聞こえる」と「聞く」の違いについてもいえそうだ。テレビを付けたまま寝入ってしまい,しばらくして目覚めたときテレビの音が異様に大きく感じられることがある。それほど大きな音なら寝られなかったはずだが,実際はぐっすり眠っていて,その間のことは何も気付いていない。音で起きたというより起きると大きな音が鳴っていたという感じがする。これは,眠っている間は脳が「聞こえる」モードになっていて,起きた瞬間に「聞く」モードに切り替わったからではないかと思う。「聞く」モードに替えようとして,脳はそれまで不鮮明だった情報を意味あるものとして再構築したために音が突然大きく明瞭になったのではないだろうか。

2009年8月31日
亜夢23

 数年前に亡くなった友人がずいぶん遠くから自転車に乗って訪ねてきた。食卓を挟んで昔話に花が咲いたが,その内,ここに来るまでに通ってきた道の話になった。その道はぼくも自転車で何度か走ったことがあったので,大通りの三叉路を渡るときの斜めに横断する要領や,川岸の道へ降りる土手の切れ目がある場所の見つけ方,神社の前の登り坂の凹凸の様子などよく知っている内容を思い出しながら細かく話をした。
 ここまでが夢で,これ自体に取り立てるほどものはないが,目覚めて気付いたことがちょっと面白かった。それは,この夢で過去のことを思い浮かべる場面では,映画の回想シーンのように視野全体が記憶の再現に使われていて,そこにそのときの状況がまったく現れていないことだ。
 これが目覚めているときなら,目の前に話し相手がいれば,その人がいる情況を視覚的にとらえながら,回想場面は脳裏に浮かぶ。電車で物思いに耽っているときでも,窓の外を流れる景色が視界から消え去ることはない。
 当たり前のことだが,夢は目を瞑った状態で見るので,視覚を通して新しい情報が入らない。これは,夢での視覚的な情景は脳内の映像だから,目覚めているときのように何かを見ながら脳裏に映像的なものを思い浮かべることができないということで,この夢でこのことに初めて気付いた。自転車でかつて通った道のことを思い浮かべると,当然のように目の前にいる友人や食卓の情景は消え去り,映画での回想シーンのようにそれがスクリーン全体を占めてしまう。
 回想シーンは,テレビのマルチ画面のように,あるいは漫画の吹き出しのようにして表す方法もあると思うが,映画などでは全面の映像を切り替えて表現することが多いようだ。夢での見え方が影響しているのだろうか。

2009年10月5日
写真

 「亜空間」で文章に添えている写真は現象の説明を補うはずのものだが,その現象の本質的なところを的確に表したものにはなっていない。今さら述べるのもおかしなことだが,実際の現象とは随分異なっていて,誤解を生むことが危惧されるようなものが多い。雰囲気を伝える役はしているかもしれないが,それ以上のものでは決してないと思っている。
 写真は三次元の世界を二次元に切り取ったものなので,そこに想像力を持ち込まないかぎり被写体が表しているものを十分に理解することはできない。だからこそ,写っている常識的な部分から全体を推測したり文脈を読み取ったりするところに写真のおもしろみがあるのだろうと思う。ところが亜空間では,奥行きを持ったものを両眼でとらえたり,座標軸の変更や視線の移動が意味を持ったりする現象が対象になるので,写真はヒントとして状況を示すことに使えても,表そうとする被写体は想像できる範囲に収まらない。その状況を平面で表そうとすることに自体に無理があることになる。
 人物のスナップ写真のようなものでも,そこには表されていない情報を付加したり差し引いたりして,被写体と本人の関連付けをしながら見ている。まして,展覧会で展示されている写真となると,作者の意図を読み解こうとして,視線を作品上で複雑に動き回らせながら鑑賞することになる。そのとき,作品のタイトルや制作年,場合によっては作者の系譜までもが大いに参照される。
 写真に限らず表現されたものは,どんな手段であれ,提示する者とそれを受け取る者との間で共有できる何かがなければそこに秘められた肝心の意図は伝わらない。"空気を読む”ことが話題になる昨今だが,推測や比喩が利かない状況では読むべきものを知ることはできない。そういう意味では,写真という平面の世界は,比較的容易に情報の共有化ができ,想像力を発揮するのに丁度よい程度の複雑さを備えているのかもしれない。
 亜空間が日常の現実に破れを見るのに対して,写真は不十分な情報から日常を読み取るところに面白さがあるとすると,両者は対極に位置付くことになる。亜空間は「私」探しで,写真は「自分」探しと言えるようにも思う。

2009年10月28日
言葉5

 シートノックの「シート」とシルバーシートの「シート」が別の単語だということを恥ずかしながら先日初めて知った。そう言えば,フリーマーケットを自由市場だと思っていた期間もかなり長い。これはseatの「S」とsheetの「Sh」を同じ「し」として,freeの「R」とfleaの「L」を同じ「り」としてとらえているからだろう。しかし,こういった単語は片仮名の文字面や日本人の発音からは区別がまったく付かないのだから,止むを得ないことだと言えなくもない。
 また,英和事典で単語を引くとき,よく使うものや意味から推測できるものは間違わないが,片仮名だけで知っている程度の単語の場合は,目的の箇所になかなかたどり着けなくていらいらし,「R」と「L」のような文字の勘違いに気付いてうんざりすることは結構ある。
 普段当たり前のように使っている日本語でも,「た」と「だ」や「ば」と「ぱ」などは,意識して慎重に発音してみても口の形や舌の位置などに明確な違いが見つからない。専門家のそれらしい説明を読んでも実感が湧かない程度のものだ。
 それでも日頃きっちり使い分けられているのは,どこかでコントロールが出来ているからに違いない。発音している本人が気付かないほど微妙なことを無意識にできているとなると,「自分」の役割なのだろうが,そのとき言葉を出そうとしている「私」はいったい何をしているのだろう。
 こういった発音は,自転車の乗り方と同じで,幼いころそれほど苦労なしに身に付いて生涯忘れることがないものになるようだ。ところが大人になって外国語を学ぶときは,言葉の習得という意味では子供のころと変わりがないはずだが,スムーズに身に付く感じが情け無いほどしない。幼いときは「自分」が素直に状況を受け入れるのに対して,大人になるとどうも「私」がしゃしゃり出て来るようで,問題はそこらあたりにありそうだ。

2009年11月19日
亜夢24

 昨晩,布団に入って足元を見ると,細めに開けたカーテンの幅の分だけ月の明かりが部屋をくっきりと照らしている。光の射し込みかたがあまりに鮮烈なので起き上がって窓から探したが,その方向に月はなく,代わりに遠くの山のすぐ上にオリオン座の威風堂々とした姿が見える。
 視線を上にずらすとらくだの形の見たこともない星座が眩いばかりに輝いている。しかもその輪郭はビーズを隙間無く並べたような飾りになっていて明らかに自然のものではない。
 ところが,このことに特に感慨もなく,改めて寝ようとして寝床に戻り布団を引き寄せたとき目が覚めた。
 夢はこれだけだが,寝ようとしたら目が覚めたところが何ともおもしろかった。

2009年12月10日
言葉6

 先日,ツアーで韓国へ行ってきた。現地で,バスの運転手がくしゃみを「エッチュィ」と文字を読むようにしているのが何とも可笑しかった。これが引き金になって,中学校の英語の授業で鶏や猫などの鳴き声を表す言葉を知ったとき,その滑稽さ以上に日本での表現と異なっていることに驚いたのを思い出した。
 こういった動物の鳴き声は,文字で表すときやその動物の鳴き真似を子供に聴かせるときは「こけこっこ」や「にやお」などと文字の通りを口に出すことが多い。くしゃみの音も文字で表すときや小さな子供との会話では「はくしょん」を使うのは分からないでもない。だが,実際に鼻がもぞもぞして突然口ら飛び出してくる音に対して「はくしょん」という言葉を当てはめなくてもいいのに,その文字を読むように大げさにくしゃみをする人をよく見かける。
 咳も同じように突然口から出てくる音だが,それを言葉のように「こんこん」とか「ごほんごほん」とわざとらしくいう人はあまりいないように思う。くしゃみも咳も生理的な現象なのでどこが違うのかよくわからないが,くしゃみだけは言葉になってしまうのが不思議だ。
 「はくしょん」を人に聞いたりして調べてみると,タイでは「アッチュン」,英語では「アチュー」,ドイツ語では「ハッチ」と言うらしい。国によって違っているのに,文字を読むようにくしゃみをするところは変わらないのが面白い。